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純粋な悪という前提がそもそも西洋の一神教的な概念で日本になかったものでは。
西洋の価値観には神と悪魔がいて神が純粋な善なので純粋な悪として悪魔が対置される。
ところが日本人はこの悪魔がなんだかピンとこないんですね。清盛の悪事は残虐非道のそれというより驕慢の報いであって、平家物語も源氏が平家をやっつける勧善懲悪というより滅びゆく平家の悲哀が中心です。
残虐さでは信長の方がよっぽどひどいことしてるけど現代では英雄扱い。なんのかんのいって日本は歴史上、地方領主の統治が強い分権国家であり、極端な暴君が生まれなかったからじゃないですかね。
平安時代は中央集権だったけど仏教の影響で死刑もなく内乱も少ない。
江戸幕府の将軍も別に軍事国家の独裁者じゃなく、全国に割拠する軍閥の親玉みたいなもの。
しかも江戸時代、幕府はけっこう善政をしいていて年貢も厳しくないし町人にいたっては無税なんですね。日本で最大の災厄はやはり地震、洪水、干ばつ、飢饉、疫病などの自然災害じゃないですかね。
善悪ではなく幸運・不運こそが最大の関心事だったでしょう。中国で日本のおでんが人気になっていたということを最近知りビックリ。
おでん - oumyo / 【コミックDAYS読み切り】おでん | コミックDAYS
しかも「関東煮」という昔の関西でのおでんの呼び方で伝わっていた。
なおタイではしゃぶしゃぶが人気でなぜか「スキヤキ」と呼ばれているらしい。(ぶコメに書ききれなかったのでここで言わせて)新作アニメ非常に楽しかった。シリアスにも説明過多にもなりすぎず、文芸映画ではなくアクション映画になっていた。
原作にはアイデンティティ(自我)の苦悩がない。迷ったらゴーストのささやきを信じるんだというドライな決断主義があり、それが爽快だった。押井版はこれを「私は人間か」とひたすら悩み続けるウェットなウジウジ女にしてしまった 。神山版はハイレグ刑事(デカ)。
自我の苦悩というのは近代文学のコアなテーマで、主人公が自我に悩んで成長したり破滅したりするさまを描くのが文学。つまり内面のドラマが主眼。この内面がすっぱり切り捨てられてるのが士郎のマンガの特徴。素子はテロリスト絶対殺すマンだし自分が助かるためにためらわず人質の脚を撃つ。SACで描かれたような、大事故から生還して過酷なリハビリの末に義体に適応し(うろおぼえ)…みたいなトラウマもない。むしろ悩んでるのは人形使いの方で(私は生命なんだ…このままじゃ進化できない…)、内面を得たAIと捨てた人間の融合という逆説的な結末がユニークだった。押井版は主人公に内面を与えて昔ながらの「文学」に退化してしまったというのが持論。