id:akisibu
占星術だとシュメールのスフルマーシュ(大きな鯉、山羊)は、水属性で知恵の神エンキ(アッカド語エア)の象徴とされます。
http://www.toroia.info/dict/?メソポタミア/スフルマーシュ
インドに伝わって、マカラになります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/マカラ_(神話)ボーカルの声が全然衰えてなくて、これ最新まで聴けるなって別の楽しみが出来たよ
なんか表現難しいけど、ほんと貪欲でかっこいい人たちだなぁって思ったよ、すごいねぇ…声って不思議だね、見た目より加齢を感じないから。若い時の勢いとかパワー、体力があるその時しか出せない声というのはあるけど、声の質、その人らしさは年を重ねるごとに味が出てくる。その人なりの人生経験があって深みを増していくように感じる。
アヴァンギャルド。実験音楽。
近代世界、技術と人間というテーマを儂は見る。科学技術はどんどん発展していってて、人間はそんな変わらない感じで、価値観や法制度、教育の追い付かなさが目立ってる。ルネサンスの三大発明の現代版、火薬→原子爆弾、羅針盤→人工衛星とGPS、紙と印刷術→インターネットだと思っているから。
大学時代に聴いていてレトロフューチャーを感じた。20世紀に夢見た未来の青写真がかえって新鮮に感じられた。
物質的な繁栄を支える生産労働。より高くより遠くより強くを夢見て経済成長に駆り出される。「二十世紀鋼鉄の男」の裏面に「BLDG (ジャックはビルを見つめて)」、工業的で、インダストリアルな響きで労働を表現する。「温和な労働者と便利な発電所」に感じる規律と解放。「駅は今、朝の中」、輸送手段の発達、「歩いて,車で,スプートニクで」。スプートニク・ショックと教育制度への影響も連想する。
色々な歪み、制度疲労が明らかになってきている現在、ふたを開けてみた21世紀の雲行きが怪しくてならない。歌詞に犬がよく出てくる。平成の負け犬。昭和に遡ると馬鹿ばかしさのまっただ中で犬死しないための方法序説、1969/1970あたりに境目があるような気もしていた。その前から不穏さは表現に表れていたようにも思う。はちみつぱいの「塀の上で」の青と鈍色の対比を思い出す。下から目線で「私は愚民」。はちみつぱいの「さよならアメリカ さよならニッポン」なんて、今の方が流行りそう。「GOD SAVE THE MEN(やさしい骨のない男)」、時代を象徴する在りし日の渋谷。渋谷系は90年代みたい。再開発や西武渋谷店の閉店(おいしい生活。MOTHERシリーズの糸井重里のコピー)にすぐ言葉にならないような、色々思うところはある。変わりゆく渋谷。
思春期の子どもたちの難しさに手を焼く親の視点は「Who’s gonna die first?」。クッションかソファのような緩衝材、モノ化する人間というテーマは「涙は悲しさだけで、出来てるんじゃない」にもみられる。「ジャブ・アップ・ファミリー」に見る、家庭崩壊。
「9月の海はクラゲの海」で注目するのは、子どもの愛し、大人の許し。さらには神の愛と赦し?って思うのは、「Who's Gonna Cry?」 、「Who’s gonna die first?」、「Christ, Who's Gonna Die And Cry」の並び。
怪物というキーワードに着目すると、「犬の帰宅」「who’s gonna be reborn first?」モンスター〇〇がウヨウヨしている世相。思い浮かべるのは渋谷ハロウィンの位置づけ。「ダイナマイトとクールガイ」には続編として、「Cool Dynamo, Right on」がある。続編の曲を発掘するのも面白いね。
新曲の「美しき老い」からは「夢が見れる機械がほしい」「花咲く乙女よ穴を掘れ」「何だ?この、ユーウツは!!」「僕は走って灰になる」を歌詞のキーワードから思い起こす。老いたものはその人なりに天国も地獄も知っているのは「悲しいしらせ」を通ってきたから。聴き手も一緒に老いを共有する。ムーンライダース聴いてる今の40歳めっちゃいいと思った
いいよ~。20年前に中年の危機を音楽でそれなりに予習しているような状態で40歳を迎えているので、なんか楽しい。
バンド結成が1975年で、実験的。詩集(新潮文庫)も読んだ。男の子が大人の男性になる大変さの実感、永遠の美少年のイメージを描いた稲垣足穂の世界も知っているともっと味わい深いんだろうね。最年長1950年生まれだから戦後日本の75年の時代の風をその身に受けて音楽として反映させてきた人たちという風に捉えているよ。少年から青年、壮年、中年を経ての老境を現代の日本に生きている実感ベースで表現する。
「夏の日のオーガズム」「A FROZEN GIRL,A BOY IN LOVE」には、男らしさとは?ってテーマ、裏面に女子供LGBTの位置づけはどうなってる?みたいなことを読み取れる。
「マニアの受難」「B.B.L.B.」には精神的な豊かさ(薔薇に象徴される)。唯一絶対の解じゃなく、それぞれの最適解。
薔薇は生きるのにかかせないというメッセージ性だと「Kのトランク」 https://openwhyd.org/c/6ac8652cb45ad085d09cf66c
トランクは旅行鞄、はちみつぱいに「君と旅行鞄」がある。
物欲の時代に「物は壊れる、人は死ぬ…」って、置き去りにした何かかなしいものをみつめている。「鬼火」のような「火の玉ボーイ」の路地裏の観察者みたいな視点の鋭さ、都会的なセンス、敏感、鋭敏な精神が宿っているのだと思う。売れるとか売れないとかより自分たちのもつ美意識を前面にプッシュしてる感じがするんよ。そういうのが、かっこよさの一端なのかも。所属階層を上下するモチーフ、異類婚姻譚(神と人の聖なる結婚、ヒエロス・ガモスhieros gamosから様々な動物まで)をイメージします。
天界や地下の冥界、天国と地獄いった上下の移動はアップダウンが激しい心の波瀾万丈ぶりを表現しているように思えます。
住む世界が違えば、気候も植生も菌類の生態系も食べ物も違って、他にも色々と細々とした物の処し方も勝手が違って、これまでのやり方やそれまで当たり前だと思っていた考え方が通用するとは限りません。無理難題に直面します。グリム童話「つぐみの髭の王様」の冒頭で文句をつける姫を読んでいると、かぐや姫(竹取物語)の5人の貴公子に対する無理難題(課題婚型神話)がぼんやり思い浮かびます。
日本神話だとオオクニヌシがスセリビメを娶りたいと思うところにスサノヲが試練を課しますが、場所は根の国底の国、冥界です。母の不在、母の影が薄いのですが、カグツチ・火の神を産んで冥界に行ったイザナミの住む世界が根の国だという背景を思い出すと存在感を意識しないだけで、はじめからずっとそこにあるものだと気づきます。
ギリシャ神話では神のアモールと結ばれたい人間のプシューケー(Psyche)にウェヌス(Venus)が試練を課して冥界に下るエピソードがありますが、シュメール神話に遡ればドゥムジをパートナーに持つイナンナの冥界下りでエレシュキガルに死ぬような目に遭わされるシーンと重なって見えます。おとぎ話にも地下世界の試練の一種とも捉えられるシーンがあります。
・おやゆび姫がお金持ちのモグラと暮らす
・手なし娘がグリム童話では年寄りの悪魔(お金はある)との契約で父親の元を離れる
・日本の昔話の手なし娘では長者のところに嫁ぐ手前で斬りつけられて谷底に落ちる(どちらも父親が手を切り落とす)
・鉢かづき姫(似た雰囲気の継子いじめの話)では生前の母が嫁くらべで恥をかかないくらいの教育を施し、鉢を被せる。母亡き後は父親の元を離れ、川に身投げするも、鉢で首から上は浮かぶので、沈まない
・つぐみの髭の王様では怒った父王が姫を追い出し、物乞いに嫁がせる一旦、下方に降りて、コロッと向きが反転してまた上がってくる心の逆転現象について、ユングはエナンティオドロミア(enantiodromia)という言葉を当てはめました。(自然哲学者ヘラクレイトスの言葉が由来、万物の根源アルケーは火と主張した)
ユング派の心理学からおとぎ話を分析する本を興味深く読んでいます。シルヴィア・ペレラ(Sylvia Brinton Perera)の「父の娘」というキーワードは、現代の女性の置かれた状況と心理について見るべきものがあるように思っています。映画『おいしい給食』シリーズを見ていて感じたんですが、給食ってローカル色濃いですよね。
食べることが苦になる自分にとって可食か不可食か非食かで分類していて、入学した小学校でソフトめんが出たときは食べられるものが出て内心ほっとしていた記憶があります。栄養を考えて予算も限られる中で色々工夫したのは頭では分かっちゃいるんだけど調和を感じられない変なおかずは苦手でした。完食の道は険しかったです。アルミパック入りのごはん、紙パックの牛乳、液体タイプのミルメークなど脳内に映像として記憶が残っています。
転校先が米どころでわかめごはんがおいしくて衝撃でした。瓶の牛乳に粉末タイプのミルメークを溶かしていました。おかずや食器なども含めて給食の印象がひと昔前にタイムスリップしたような不思議な感じがしました。
食育とかまだあまり言われなかった平成時代で、空間的な移動が時間的な移動とリンクしていると感じられた体験のひとつです。ヴィーナス→イナンナ/イシュタル
アドニス→タンムズ→牧羊神ドゥムジThe Electronic Text Corpus of Sumerian Literature
4.08.05 レタスの歌がありますね。フランス語、イタリア語での検索で拾ったものを貼っておきます。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Boîte_de_conserveトンナーラ・ディ・ファヴィニャーナ
1859年Florio familyやGiulio Dragoがキーパーソンとして出てきます。
De l'Esturgeon, du Thon, du Turbot, du Cabillaud, et de l'Anguille de mer.
Leurs parties désossées, préparées comme on le juge à propos.検索ついでに、1772年までにはオランダ海軍のサーモンの缶詰の使用の話も。
不快に感じるのは出会い頭に気を殺がれる広告。
囚われの身じゃなくて身軽に動けても時間があっても気が向くかどうかってところにハードルがあると感じる。例えばコトバンクの動画広告で経験したこと。
調べようと思ってアクセスして、
本文を覆い隠して広告見てねってデーンと居座っている。しかも退いてもらうには動画か何か見るのが条件だという。
あのねー、その何秒か何分かわからないけど、
待ってられないというか、
待ってくれないんだ、どんどん思考が進んでいくのに口と手が追い付かないことすらもどかしいくらいなんだ、こっちは、昔から。ってことわかってない、わかってなさすぎる。
adversus(不都合)adversity(逆境、不運)
集中的に調べるモードで行くならサブスクはジャパンナレッジ、買い切りなら紙の辞書、あとは図書館に行こうってなる。好ましいのは、ひねりのきいた広告。お金払ってでも見たくなるようなのは有り難い。
advertisement→adverto,adverse
同じ仕向けるでも、気を逸らして転じさせる(divert)なら楽しく気分良くやる気がわいてくるようなのがいい。参考文献の特定までは難しそうですが、
レタスの花言葉について載っているのを参照しました。春山行夫 著『春山行夫の博物誌』1 /2,平凡社,1986.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12614454 (参照 2026-10-04)
母乳が前提で、本来温かいはずの乳が冷たいとはどういうことか?って問いを立てると思考の補助線になりそうですか?
考古学分野では、青銅器時代・鉄器時代の陶器製の出土物が動物由来のミルクを与える哺乳瓶だったと考えられるとの知見も。
フランス語でLaitue、英語lettuce、
ラテン語に遡るとlacutucam
学名でLactuca sativa、ラテン語の動詞でlacto授乳、哺乳、乳で養い育てること。
語源や辞書ではここまでです。実体験と結びつく知識としては、
レタスは切ると白い汁が出てくる。(芯の方がわかりやすい)
白い汁をミルクのようだと捉えたからlacto(=milk乳)と呼んだ。
冷たいミルクですね。排水口の銅の導入、最近取り入れたところです。微量金属作用による抗菌効果について調べていたんですが、上流で根本原因を解決し、無限ループの不毛な作業を断ち切ることにつながる(『上流思考』)と思い、先出しで買ってはいました。
買うとき悩みました。こまめな手入れを習慣化できているか、自分はそれを使うに価する人間だろうか。今の等身大の自分にとって本当に良いものなのだろうか?新品を下ろして使うまで、機が熟すのを待ちました。相性の見極めには時間を要します。現状回せているならいいかというと、作業者が免疫力が低下していたり、手や指を怪我していたり(中高年の女性に多いメノポハンドも考慮)した場合に、じゃあ、誰が代わりにやってくれるの?と。
何かと忙しいから後回しになりがちなライフスタイルでは、ためこんだ強力洗剤で対処する方法も場合によっては便利です。ぬめりやカビなど酷く汚れてから洗うことへの心理的抵抗感、可能な限り汚れを落としきろうとすれば手や腕も疲れるので億劫感も大きいのは日々やっていてわかります。作業そのものが楽になれば負担感もいくらかやわらぎますし、心も折れにくく、身体も消耗しにくくなります。
安価な便利グッズがたくさん売られていて、使い捨てが当たり前の世の中で育ちました。
壊れたら買い替え、悪くなったら部品交換すればいい。大量生産、大量輸送、大量流通、大量消費。
その行く末には?
大量浪費、大量廃棄、大量焼却が待っている。火葬場を見学して、焼却炉についてロストル式というのがあるのを知り、さもありなんと思いました。
物が多くて、玉石混淆。形見になるような大事なものもどうでもいいものも。被災したら瓦礫の山となって全部ゴミになる。被災しなくても長らく死蔵して埃を被っていたら、そもそもあるのかすら把握できてなくて、誰も活用できなくなっててロストテクノロジーになる。ゴミの山から使えるもの、金目のものを見分けて、付加価値をつけて取引するビジネスが繁栄している現状を見て思うのは、ゴミになる前に良好な形で引き継げるサイクルが細る中でピーチが市場から抜ければレモンの市場だなということです。生産終了、廃番でパーツが売ってないから直せないという状況に直面する機会が増えました。心と身体を切り分けて、心は一体どこにあると人間は思うのでしょう?って謎ですよね。
こういう謎を考え出すと心の哲学、デカルトとかスピノザとかメルロ・ポンティとかを読むことに縁付きます。心が頭(脳)にあると思うのを当たり前だと思う西側の世界のお話って大雑把に自分の中では括っています。
頭脳と首から下を切り分けてってモチーフ、子供の頃見たディズニーのアラジンのテレビアニメシリーズでHeads, You Lose(アラジンの頭をとりもどせ!)に出てくるCaliph Kapokがアラジンの頭と身体を切り離すシーンが印象深かったです。物事を分けて解ろうとするとこれ以上分けられない原子、アトム(atom=否定のa+tom切り分ける)を探求する道もあれば、
複雑なものを複雑なまま、まるっと呑み込んで相互の関係ネットワークについて後からじっくりと咀嚼・反芻して血肉にする道もあります。
日本って複雑なまままるっと呑み込ませる方に寄っていたように思います。(あまり説明がなかったから)日本語でわかると一口で言っても、頭で解ることと肚落ちすることを分けて表現することができます。頭でわかる→できる→肚落ちしてわかるが結びついている。頭でわかっちゃいるけどやめられない、できないは、呑んだはいいが肚まで落ちていってないという風にも捉えられます。心が肚にあると思っていたとすると、切腹の風習も腹を割って話すという言い回しも、もうそうとしか思えな言い回し気もするし、いやまてよ、妄想としか思えない気もする。ハラと一口にいっても腹と肚は同じなのか?とか疑問も浮かびます。最近はシックスパックで腹筋を割るのも腹を割るという。
現代では脳と腸の関わりや自律神経のはたらきについても知見が増えてきています。
思い当たることがないか胸に手を当てて(そのとき心は胸にある?)自分の体験と照らしてひとつひとつ落とし込んでいくのが地道な鍛錬です。呼吸が止まっている時間が長い、呼吸が浅過ぎる、胸が冷えているといった感じにくくなっている身体のモード(解離)を自覚して武装解除するところからでした。
今生きている実感と結びついた体験にぴったりくることばを探すために、リアルタイムで何らかの記録を残しておいて、一旦寝かせています。
そのとき心が動いた(そのとき歴史が動いたみたいなフレーズ)というタグ付けになりますね。いくらか興奮が収まった状態で後から回想モードで書けるようになると、昔読めなかったのがだんだん読めるようになりました。人々が何を思い、何を感じて生きてきたのか。なるべく客観的に見ようと第三者的に観察し、考えて書く自分って、
手と目と脳に特化した身体って感じがするんですよね。あまりにアンバランスなので、反動で全身動かすときがあります。
そういえばSFで『スキャナーに生きがいはない』という作品があって、脳と肉体を切り離されたスキャナー達が出てきますよ。歌、いかにも昭和だなあ、昔だなあと感じるサウンドです。歌詞に着目すると、ウソウソってピンとこないです。肥れないことってあたりも今だったら肥満の方が問題ですし。症状も今なら不定愁訴ってまとめて呼びますね。
ユーザー視点では、祖父母の代、親の代、孫の代とも3代リピートしている状態です。そういえば孫リピ製品、他にもいくつか思い浮かびます。
プロダクトデザイン、素材もまた時代を映すものですね。当時では当たり前とされた生活環境の中で使用されることを想定して作られています。時代的に畳生活が前提だと思います。床がフローリングの所では、ヨガマットを敷いてその上で寝そべる使い方にしています。ベッドやソファで使うときは、い草の花台を間に挟みます。
身体が強くなかったがゆえに発明者自ら、実験台になって、周り(ベータテスター)にも試してもらって、そこから普及(正式リリース)が始まった話は、身体が強くなくて養生について考えた貝原益軒とも似ていると思います。虚弱な人でも生きられるような世の中にしておくと、時々こういうライフハックが編み出されるのかも。少しづつ本人たちに返しているのですがなかなか…
ゆくゆくはこちらに与えられるものなんだろうとそれは賭けですね。
時間の交換になる場合もあるし、当てが外れて交換が成立しない場合もあるので、儂から見たら賭けのように見えますね。
交換といっても時間は巻き戻せないので、まだ到来していない後の時間について、それぞれの手持ちの時間、リソースの配分をどうするかっていう話になるんですよね。返しているというのは、本来なら家族のメンバーそれぞれがそれぞれで生き延びるためにやらなきゃならないタスクを返しているってことですよね。
こちらに与えられるというのは、自分以外の家族が、家族で生き延びるためにやらなきゃいけないタスクをこなためにかかる時間を手持ちの時間から費やし、その分自分が好きなように自分のために使える時間の枠が与えられるってことですね。生き延びるために時間を使うことも可能だけど生を享受するための時間にも使える両方の選択肢が持てて、実際に生を享受する時間として使えてはじめて交換が成立するものですね。
一時間なら自分の一時間も相手の一時間も一緒(ある一定量の時間を交換可能なもの)とみなす考え方を前提としています。ちなみに貨幣経済では、お金を媒介に時間とか自由とかと交換しているものと解釈できます。
これって、一度過ぎ去った時間って返ってこない(時間の不可逆性)けど短期的には取り返しがつくように思えるので、漠然とあまり先のことを考えないで目の前のことだけで手いっぱいだと色々見落としやすい要素があるんじゃないかと。
例えば、自分の身体や心、ものの考え方や感じ方ってリアルタイムで変化するので可逆的かどうか疑わしいんですよね。こういうのは時間の質とか密度、時間体験の価値といった話にもつながりますね。昔ながらの風通しのいい日当たりもほどよい木造住宅の環境を前提としてであれば濡れた新聞紙や茶殻を使っての掃除が理にかなっているんだろうと想像できます。
前提となる環境が違ったらどうでしょう?やっぱそこは実験ですね。
鉄筋コンクリート造りの学校はなんとなく冷えるような記憶があるので濡れると乾きにくいかも?高気密高断熱住宅だとカビやすいんじゃないか?みたいな予想をしながら。理科の先生って変わり者って印象ですが、科学する姿を見せてくれていたんだと思います。
伝統や慣習、権威に縋りつくことがそれまでとは違う新しい局面では全く役立たない場合(却って思い込みや錯覚が害になることもある)、みんながやっているからとかそれが当たり前だからというのを一旦脇に置いてみて、自ら観察・実験して経験を踏まえて考えてみる。そうやって科学は進歩するもの、みたいな話は科学思想史のテーマで本を読んでいると出てきましたから。どんどん楽できる方法を考えろ
手書きで写して書痙になるような努力の仕方を避けて活版印刷術にシフトするというグーテンベルク的な努力の仕方ですね。
幸田露伴の雑巾絞りや雑巾がけのしつけ方は読んでおきたいと思いますね。