id:Akech_ergo
サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」という本がある。これはフェルマー予想(3以上の自然数nについて、xn + yn = znを満たす正の整数の組x,y,zは無い、という予想)とそれを解決した数学者アンドリュー・ワイルズについての本なのだが、その序文でシンは、おおむね次のようなことを書いている。物理学ではニュートン力学の後に相対性理論や量子力学が出てきたように、過去の理論が新しい理論によって修正されたり、適用範囲を限定されたりする。それに対して、数学では一度正しく証明された命題が、後から覆ることはない。(ちなみに、サイモン・シンは物理学の博士号を持っている。)
これは数学の大きな特徴である。数学では、公理や定義を出発点として演繹的に結論を導くので、前提と推論規則を固定すれば、正しく証明された結論はその前提のもとで成り立つ。物理学や工学の理論も論理的に組み立てられるが、そこで置いた前提が現実に合っているかどうかは、観測や実験で確かめなければならない。測定の精度が上がったり、それまで調べていなかった条件を扱ったりすると、前提を修正する必要が出てくる。数学の証明には、そうした意味での修正は必要ない。
そういうわけで数学の理論というのは特別な意味を持つのだが、実際のところは、証明に誤りがないことの確認というのはとても難しい。ワイルズによるフェルマーの最終定理の証明を記した論文も、査読に長い時間を要した。また、一度は不備が指摘され、ワイルズはその修正に1年近くを要した。証明が正しければ結論は保証されるとしても、その証明が本当に正しいかを確かめる人間には、間違える余地がある。
それでもワイルズによる証明は、最終的には正しいものとして数学界に受け入れられた。一方で、査読を通ったのに数学界に広く受け入れられていない証明もある。
望月新一によるABC予想(内容はちょっと説明が難しいので興味のある向きはググってほしい)の証明がそれで、望月の発表した宇宙際タイヒミュラー理論(IUT)の論文は、長年の査読を経て採択された。しかしNatureは2020年の採択報道で、証明に重大な不備が残っていると考える専門家がいることを伝えている。
この問題について、証明に最も批判的な数学者のうちの2人がペーター・ショルツェとヤコブ・スティックスである。彼らは証明の内容について望月らと議論したうえで、証明の特定の箇所に重大な問題があるとする文書を公表している。一方、望月は、その指摘がIUTの誤解に基づくものだと反論している。どちらの議論が正しいのか、僕には判断することができない。
ここで僕が言いたいのは、数学のように論理的な正しさを追究する学問でさえも、提示された証明が正しいかどうかについて、人間同士で合意を得られない場合がある、ということだ。人間の知性は高々2kgの脳に制約されており、扱っている問題の複雑さは容易に頭蓋骨からあふれ出す。
問題の複雑さが自身の知性や忍耐を超えたとき、人はその周辺情報から判断を行おうとする。すなわち、「有力な学者が議論の上で疑問を呈しているなら、やはり証明には問題があるのではないか?」あるいは、「査読付き雑誌が採択したのだから、大きな問題はないのではないか?」といった判断である。自分ですべてを確かめられない以上、専門家の知識や検証実績を参考にするのは合理的だろう。
それでも、難しさは残る。専門家を信頼する根拠が、その専門家の実績や他の専門家からの評価にあるとして、それらの妥当性を僕らはどこまで自分で確かめているのだろうか。「この人は信頼できる」という判断まで、別の誰かの判断に頼っていることは少なくないはずだ。数学のような純粋に論理的な学問についてさえ、僕らが何を正しいと受け入れるかには、他人への信頼が入り込んでいる。
証拠に基づく議論をせよと人は言う。正しい知識を身に付けよと人は言う。ごもっともである。だけれど、自分で確かめられることがこれほど限られているとき、僕たちは誰を、何を信頼すればよいのだろうか?
ヘルメットをしていないことがとても気になって
頭装備問題ですね。一番重要な頭部を守らないのはたしかに違和感があります。
ただまぁ、キャラクターの識別を容易にし、表情の演技を見せるためにキャラクターの顔を隠す装備は極力描きたくない、という演出上の理由があるので、仕方ないかなと思います。ガンダムなんかだとパイロットスーツは頭部を覆うデザインですが、表情を描きたいときはヘルメットが透ける、みたいな描写だった気がします。あるいはモンハンのゲームだと、頭装備を表示しないというオプションがあったような。ガルパンだとバレーのユニフォームとか戦国時代のコスプレとかして戦車に乗っている子たちがいますが、あれも多数の登場人物をぱっと見で識別させるための演出上の要請なのかなーと思っています。
私は、そういう演出上の必要があるなら、たいていの嘘は許せる(気にならない)タイプです。(スレッド内の議論を踏まえた今の)私の認識としては以下の感じです。
- 先天的な「頭の良さ」のようなものがあり、それは原則として後天的には訓練できない。
- あるタスクのこなし方や問題の解き方といった考え方を知識として身に着けることは可能で、多様な知識を身につけることでそれらの知識がネットワークのようにつながり、少なくとも訓練したタスクについては精度よく効率よく遂行できるようになるし、また、類似のタスクについても応用できるようになる。
2 について、「それは頭が良くなっているということではないのか?」というツッコミはあるかと思います。否定できません。
しかし、例えば勉強しなくても数学ができる人と、勉強した結果数学ができるようになった人って、頭の使い方が違うように見えませんか? みたいなところに引っかかっています。
あるいは、「二十歳過ぎたらただの人」の逆バージョンで、「長じるにつれ頭の回転が速くなった」みたいな人っているのかな、みたいな疑問です。少しスレッドが長くなってきたので、AIに議論を要約してもらいました。(
Moutonの要約はいまいちだったのでチャッピーに頼みました。)
スレッド全体を読ませて、要点を3~5点の箇条書きでまとめて、と指示しています。強調もchatGPTです。チャッピーによる要約
- そもそも「頭の良さ」を知識と切り離せるのか。 問題解決力、理解の速さ、機転などが混在しており、定義が大きな論点に。提起者は、主にIQテストで測られるような「地頭」を想定しています。
- 訓練で成績が上がっても、認知能力が高まったとは限らない。 IQテストの点数や仕事の熟練度の向上は、出題パターンの学習や経験でも説明できます。特定の課題への習熟が、別の課題にも通用する能力につながるかが争点です。
- 知識の蓄積自体が、思考力を育てるという見方もある。 多様な知識を関連づけることで、初めての問題も理解・解決しやすくなるなら、それも「頭が良くなった」と呼べるのではないか、という意見です。
- 教育・生活環境・健康を通じた改善の可能性が挙がっている。 遺伝と環境の双方の影響が紹介され、教育や栄養、視力・聴力などの改善も話題に。ただし、能力そのものの向上と、能力を発揮しやすくなることの区別は残ります。
- 実用的な能力は伸ばせそうだが、「地頭そのもの」の改善については未決着。 問題を解けるようになれば十分という立場と、その改善が知識によるものか認知能力によるものかを区別したい立場があり、両者をどう観測・判別するかが最後まで課題になっています。
共有ありがとうございます。
そういえば、なんか指先をクルクルすることで脳を鍛えるみたいな体操?をむかしテレビで見た気がします。
やってみると意外に難しい! 「指トレ」で認知症予防ただ、このスレッドで言っているような意味での「頭の良さ」が楽器やタイプライターで身につくかというと、
演奏家やタイピストはみんな頭が良いわけではなさそうなので、どうかしらという気がしますね。