調査及び資料作成はClaudeで実施しました。
矛盾してないか気になった部分があり、投稿後確認した内容を反映するため更新しました。
新高山という日本一
一次資料調査/1897–1945
1897年6月28日、明治天皇は台湾の玉山に「新高山」の名を与えた。富士山より174メートル高いその山は、以後半世紀にわたって公式には「日本一の高山」だった。当時の日本人はそれをどう書いたのか——国立国会図書館の全文検索で、実際の記述だけを拾い出した記録。
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| 検索語 |
「新高山」 |
| 検索基盤 |
次世代デジタルライブラリー(インターネット公開図書 約35万点/本文OCR全文) |
| 全文ヒット |
2,971件 |
| うち1910–45年刊 |
2,257件 |
| 原文確認 |
約90点 |
| 調査日 |
2026年8月26日 |
この文書について — 推測を一切混ぜない、という条件
「新高山に日本一の座を奪われて日本人は驚いた」という語りはネット上に大量にある。しかし出典が示されているものはほとんどない。そこで方針を反転させ、原文を引用できるものだけを集めた。
主な道具は国立国会図書館「次世代デジタルライブラリー」の全文検索APIで、戦前刊行図書のOCR全文を横断できる。以下の引用はすべてそのOCRテキストであり、旧字・ルビの混入や誤認識を含む。論文等で使う場合は各項目の PID から原本画像を照合する必要がある。
各資料には確度を明示した。
- [原文確認] — 本文のOCRを直接読んだもの
- [二次資料] — 書誌や引用でのみ確認できたもの
- [裏付けなし] — 探して見つからなかったもの
「536件」と「2,971件」— 何を数えているか
国立国会図書館サーチで「新高山」を検索すると536件しか出ない。本調査の2,971件と食い違うように見えるが、測っているものが違う。
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NDLサーチ |
次世代デジタルライブラリー |
| 検索対象 |
書誌情報(タイトル・著者・出版者・件名・目次) |
本文のOCR全文 |
| 対象資料 |
NDLの全所蔵(紙・マイクロ・雑誌を含む) |
インターネット公開のデジタル化資料のみ 約35万点 |
| 「新高山」 |
536件 |
2,971件 |
NDLサーチのキーワード検索は「タイトル、著者、出版者、件名、目次などをまとめて検索します」であって、本文は見ていない。536件は「書名や目次に『新高山』が入っている資料」の数である。本稿で引用した『尋常小學國語讀本 卷六』は書名に「新高山」を含まず、第二課の本文に出てくるだけなので、NDLサーチでは拾えない。
逆向きの確認もできる。同じAPIで検索対象を書誌のみに切り替えると、次のようになる。
keyword=新高山 → hit: 2971
keyword=新高山&searchfield=metaonly → hit: 15
次世代DL側を書誌だけに絞ると15件まで落ちる。NDLサーチの536件がこれより多いのは、次世代DLが著作権保護期間満了のデジタル公開資料に限られるのに対し、NDLサーチが紙407件・マイクロ18件・雑誌368件を含む全所蔵を対象にしているためである。
つまり、対象資料の広さでは NDLサーチ > 次世代DL、1点あたりの検索の深さでは 次世代DL > NDLサーチ。536と2,971はこの2軸が逆向きに効いた結果であり、直接比較できる数字ではない。
なお、NDLサーチの536件のうち368件が雑誌であることは、後述の「確認できなかったこと」で挙げた雑誌記事の層がそのまま可視化されたものである。ここを潰せば、今回「裏付けなし」で終わった項目のいくつかは埋まる可能性が高い。
全体像 — 言及の担い手は、学術書ではなく教科書だった
分野別に見ると、NDC375(教科教育法)が591件で突出している。次いで日本地理208件、アジア地理99件。新高山という名前を日本人の頭に入れたのは、地理学でも登山でもなく、小学校の教材だった。
| 区分 |
件数 |
| 「新高山」全文ヒット総数 |
2,971 |
| 教科教育法(NDC375) |
591 |
| 日本地理(NDC291) |
208 |
| アジア地理(NDC292) |
99 |
| 地理総記(NDC290) |
85 |
| 植物学(NDC470) |
21 |
| 鉄道(NDC686) |
21 |
| 国防・軍事(NDC390) |
10 |
| 日記・紀行(NDC915) |
7 |
刊行年別「新高山」言及書数(1897–1945)
| 年 |
件数 |
年 |
件数 |
年 |
件数 |
年 |
件数 |
| 1897 |
8 |
1910 |
82 |
1923 |
35 |
1936 |
97 |
| 1898 |
35 |
1911 |
117 |
1924 |
58 |
1937 |
77 |
| 1899 |
40 |
1912 |
126 |
1925 |
72 |
1938 |
67 |
| 1900 |
44 |
1913 |
65 |
1926 |
105 |
1939 |
77 |
| 1901 |
58 |
1914 |
40 |
1927 |
60 |
1940 |
80 |
| 1902 |
65 |
1915 |
39 |
1928 |
69 |
1941 |
46 |
| 1903 |
40 |
1916 |
50 |
1929 |
68 |
1942 |
43 |
| 1904 |
50 |
1917 |
56 |
1930 |
71 |
1943 |
51 |
| 1905 |
56 |
1918 |
48 |
1931 |
75 |
1944 |
27 |
| 1906 |
63 |
1919 |
38 |
1932 |
63 |
1945 |
0 |
| 1907 |
37 |
1920 |
23 |
1933 |
66 |
|
|
| 1908 |
60 |
1921 |
34 |
1934 |
90 |
|
|
| 1909 |
60 |
1922 |
47 |
1935 |
95 |
|
|
10年区分:1897–99 = 83/1900年代 = 533/1910年代 = 661/1920年代 = 571/1930年代 = 778/1940–45 = 247
1911–12年の第一のピークは国定教科書の改訂期にあたる。1925–26年の再上昇は陸地測量部による標高再測定(一三、〇三五尺確定)と新高祠建立の年に重なる。最大の1934–36年は国立公園候補地の選定から1937年の指定に向かう時期。1941年12月の暗号電文「新高山登レ」以降はむしろ減少しており、1945年は0件。ただし用紙統制による出版量の減少と、戦後に近いほどデジタル公開率が下がることの両方が効いている。
命名の一次資料 — 「常に譬を富岳に取る」
命名の経緯を記した文書が、陸地測量部が自ら編んだ沿革誌に収録されていた。ここには、新高山の命名が最初から富士山を意識した行為だったことが、当事者の言葉で書かれている。
陸地測量部沿革誌 [原文確認]
巍々トシテ峻高ナルモノハ山ナリ 鞏固ニシテ動カサルモノモ亦山ナリ 故ニ古ヨリ君父ノ恩德ヲ表シ國家ノ安寧ヲ頌スル常ニ譬ヲ富岳ニ取ル 蓋シ富士山ハ我邦山岳中ノ最モ高キ者ナレハナリ
明治二十七・八年戰捷ノ結果ニ因リ臺灣島ノ我ニ歸スルヤ又是ト伯仲スル高山ヲ得タリ
陛下其ノ測量完成ノ日ニ至テハ朕更ニ之ヲ命名セント勅シ給ヘリト云フ
此ノ月新領土臺灣ノ臨時測圖製版成ルニ際シ同島第一ノ髙山ニ新高山ノ名ヲ賜フ
陸地測量部編・刊/1922年/NDC 448/PID 965769
https://dl.ndl.go.jp/pid/965769
公示の経路も確認できる。明治30年拓殖務省告示第6号として『官報』第4202号(明治30年7月6日、p.65/PID 2947489)に掲載され、台湾総督府府報第125號(同年7月18日)が「モリソンヲ新高山ト改稱」として重ねて公示した。日本語版Wikipediaは「拓務省」と記すが、拓務省の設置は1929年であり、1897年の所管は拓殖務省(1896年設置・1897年9月廃止)である。
教科書 — 兄と弟の会話として教えられていた
「戦前の教科書は新高山を日本一と教えていた」——この伝承は正しかった。しかも国定教科書の現物が残っており、本文はこうなっている。
尋常小學國語讀本 卷六 第二課「日本の高山」 [原文確認]
「にいさん、富士山はまつ白でせうね」
「さうさ、中ほどまでは降つてゐるかも知れない。何しろ一万二千五百尺もあつて、内地第一の高山だから」
「それでは日本一の高山は」
「臺灣の新高山さ。これは一万三千尺からある。臺灣ではめつたに雪が降らないさうだが、それでも此の山には、時に雪を見ることがあるといふことだ」
「一番は新高山、二番は富士山、三番目は」
「いや、二番も三番も臺灣にある。富士山は六番目だ。」
文部省 著/日本書籍/1932年/第三期国定読本/PID 1874189
https://dl.ndl.go.jp/pid/1874189
注意すべきは言い回しである。教科書が使うのは「日本一の高い山」ではなく**「日本一の高山」であり、しかも「内地第一=富士/日本一=新高山」という対比の形**をとる。富士山を否定するのではなく、区画を切り分けて両立させている。
地理科でも同様に明記されていた。
初等科地理 上 「十二 臺灣と南洋群島」 [原文確認]
三千米以上の山が何十とかぞへられるほどあつて、中には富士山よりも高い山々があり、殊に、高さ三千九百五十メートルの新高山は、わが國第一の高山であります。
文部省 編・刊/1943年/第五期国定・国民学校期/PID 1277122 コマ80
https://dl.ndl.go.jp/pid/1277122
さらに遡ると、第二期国定『尋常小學讀本』巻十(明治43年=1910年〜)に**第一課「日本一の物」**という単元があり、その筆頭が新高山だった。教科書現物はデジタル未収録だが、同時代の教授書・自習書が課の構成と本文を一致して伝えている。
尋常小學讀本 卷十 第一課「日本一の物」(教授書経由) [二次資料]
日本一の高山は臺灣の新高山
— 『尋常小學國語敎授細案 巻10』(1910/PID 812254)が示す文型
昔より富士は日本一の高山と稱せられしが、明治二十七八年戰役の後、臺灣の我が領土となりしより、富士は第二位に落ちたり。
— 秋田喜三郎『創作的読方教授』(1919/PID 938473)の講義
臺灣の新高山がないじぶんには〔富士山が〕日本第一の高山であつた。
— 『各科自習書 尋常小学第5学年後期』(1911/PID 813547)の解答
文部省/第二期国定/1910年〜。課名・構成・文型を複数の教授書で確認。教科書現物は未確認。
当時の反応 — 「富士は日本一の山」との矛盾は、教室で問題になっていた
同じ国定読本シリーズの巻三には、唱歌「ふじの山」が「ふじは日本一の山」として載っている(1928年版/PID 1874185)。つまり同一の教科書シリーズの中に矛盾が併存していた。
これが当時どう扱われたかは、長らく「裏付けなし」とせざるを得なかった部分である。しかし教育書を掘ると、現場の記録が三種類残っていた。
「富士は日本一の山と歌に出てゐるが、これは日本一の高山は新高山であるから此の歌は間違つてゐる」
児童の発言記録/鶴居滋一『合科学習の実施と其の一般化の研究』東洋図書、1926年/PID 980391 コマ208 [原文確認]
日本一の高山は新高だといふ事を知つてゐる兒童があると取扱上ちよつと困るね、……矯正に仲々骨が折れる……こんな場合には唱歌は讀み方の犠牲〔になる〕
教師の座談/『児童教育叢書』巻3、東京寳文館、1921年/PID 937863 コマ88 [原文確認]
注意 富士山は事實上日本一の高山ではない。けれどもこの程度に於ては「まあ日本一の高い山だ。」位に取扱つて差支なからうと考へる。
教授書の但し書き/京都府女子師範学校附属小学校教授法研究会編『模式的教材を中心としたる各科教授の研究』第1巻、1917年/PID 938160 [原文確認]
さらに早い時期、命名からわずか4年後の指摘もある。友田宜剛編『話方綴方教本教授の栞』(金港堂、1901/PID 812320)——「新高山の方富士山よりも高く候へば、富士が日本第一の高山なりとは言ひ得ぬ事と相成り候へども、名の高き事より申せばなほ富士に及ぶものはこれなく候」。
「驚いた」という感情の記録ではない。だが齟齬が意識され、教える側が具体的に困り、逃げ道が用意されていたことは、複数の独立した資料で裏付けられる。
公式の序列 — 総督府年鑑は毎年「富士山は漸く第六位」と書いた
台湾総督府の公式年鑑『台湾現勢要覧』は、10年以上にわたってほぼ同一の定型文を掲載しつづけた。
台湾現勢要覧 [原文確認]
臺灣は帝國第一の高山新高山を始めとし、海拔一萬尺以上のもの四十八座、九千尺級のもの十七座、八千尺級のもの二十四座、七千尺級のもの二十六座を有す。
卽ち新高山は一萬三千三十五尺を以て第一位を占め、富士山は漸く第六位に在り、内地第二の高山北岳は實に四十一位の下位を占むるに過ぎず。
台湾総督府編・刊/1924年版 PID 987617 ほか 1926/1927/1928/1929/1931/1932/1933/1936/1937年版に同文
「富嶽を凌ぐ」という言い方も定着していた。台湾総督府営林所『阿里山登山者のために 附新高登山案内』(1928/PID 3460597)は「本邦最高峰たる我新高山は……富嶽を凌ぐこと六百四十八尺」と記す。
日記 — 書きとめた人たち
日付つきの日記体であることを確認したうえで、新高山を明言しているものは意外に少ない。デジタル公開範囲では次の4点。
小泉信三「臺灣日記抄」 昭和15年1月12日(曇) [原文確認]
十二日、曇。臺灣に來りて始めての曇天なり。賓舘のヴエランダより、曇れる空のあなたに、微かに新高の山容馬鞍の如くなるを望む。目前の虎尾溪の水溜まりには、白鷺群がりて羽搏たきす。九時半、自動車にて發し、嘉義に向ふ。
『師・友・書籍』第2輯所収/岩波書店/1942年/PID 1211867
※表記は「新高山」ではなく「新高」
多田恵一『南極探検日記』 明治44年7月6日(晴) [原文確認]
七月六日 晴 終日後援會で事務。午後六時新橋發にて、臺灣新高山觀測所を、設置すべく、調査に赴かるゝ一戶博士を見送る。
白瀬南極探検隊員/前川文栄閣/1912年/PID 946158
長与善郎『遅過ぎた日記』下 昭和20年11月27日(雨) [原文確認]
なにしろ此方の「新高山ニ登レ」とか「東の風雨」とかいふ訓電の暗号は全部筒抜けに探知されてゐた上だ。それなら真珠湾にもう少し注意の訓電を打つてゐたらよささうなものだ。
朝日新聞社/1954年/PID 1660612
※1941年の暗号に触れる日記として、この範囲では唯一
鳥居龍藏「新高山登山日記(節錄)」 明治33年4月5日〜 [原文確認]
四月十日……かゝる間にも新高山の山頂に白く見ゆるは果して雪なるや否やの疑問は起り來りぬ。是迄新高山に登山せし人、又は其を記せし人は新高山に雪なしと云へるが多かりしより……
小田内通敏・吉田頼吉編『日本地理精説』巻首/吉川弘文館/1902年/PID 762765
※日本人による最高点初登攀の一次記録
一方、従軍日記・陣中日記・行啓日記・修学旅行日誌のカテゴリでは、新高山に言及するものは一件も見つからなかった。『宇垣纏 戦藻録』『木戸幸一日記』『田健治郎日記』などは戦後刊行または未デジタル化のため、この方法では届かない。
文学 — 御製、子規、白秋、そして王仁三郎
詩歌での言及は明治天皇御製が最も多く、1910–45年に18以上の版で繰り返し刊行された。
明治天皇御集 [原文確認]
はれわたる 空にむかひて 思ふかな 新高山の 月はいかにと (題「月前遠情」)
新高の 山のふもとの 民草も 茂りまさると きくぞ嬉しき (明治四十三年)
新高の 山よりおくに いつの日か うつしうゝべき わがをしへぐさ
宮内省編/文部省/1922年/PID 1181902
正岡子規は病床から詠んだ。「足立たば新高山の山もとにいほり結びてバナヽ植ゑましを」——1915年の『子規遺稿』以降、1943年の柴田宵曲『子規居士の周囲』まで繰り返し再録されている(PID 937217, 1874695 ほか)。
北原白秋『白秋詩歌集 第8巻 歌謡集』(河出書房、1941/PID 1069583)の「阿里山木挽歌」は「山で大鋸挽きや 日の出が染める、みあれは新高、雲の海。づんとづんと。」。表記が「新高」のため「新高山」検索では拾えない一群がある。
今回の調査で最も密度が高かったのは、出口王仁三郎の第2歌集『彗星』(明光社、1931/PID 1027908)で、目次に「新高山」という一章を立て、連作を残している。
出口王仁三郎『彗星:第2歌集』 [原文確認]
天そそる 新高山に積む雪を 目にめづらしみ あさ庭に立つ
とこなつの 嶋根もさむし はつはるは 新高颪 時じく吹けば
新高の山にポツカリ一塊の雲あらはれて空にひろごる/一塊の雲片見る間にふくらみて新高一帶雲海となりぬ
珍らしく 雲晴れ渡り 新高の 主山は手にとる如く 見えけり
明光社/1931年/PID 1027908
散文では田山花袋『旅』(博文館、1917/PID 955940)が台湾紀行のなかで「南に新高山の高く雲の間に聳えてゐるのを見る」と書き、大町桂月『桂月文選』(1915/PID 936139)は「臺灣の新高山は、これより二千尺高けれども、美觀遙に下るべし」と、高さと美しさを切り離す言い方をしている。教科書の「内地第一/日本一」の切り分けと同じ論法である。
杉山平助『悲しきいのち』(改造社、1940/PID 1144890)には、期待外れの記録も残る。
「あれが新高山です」と云つて社員の一人が指さしてくれた。雲の中に靑黑い山のいたゞきのやうなものが見えたが、山容も何もよくわからなかつた。それが私が臺灣滯在中に、新高山を見た最初でまた終りであつた。
小説 — 登場人物が口にする新高山
地の文ではなく、会話文として新高山が語られる小説を原文で確認できたものは、次の通り。いずれも今日ほぼ忘れられた作品である。
村井弦斎『日の出島』新高の巻 [原文確認]
妾は臺灣に渡り施政の良否住民の休戚を考査して、それより深く蕃地に進入し……その逸次を以て日本第一の高山なる新高山に登らんと欲す、君見ずや、新高山は富士より高きこと一千尺、舊名をモリソン山と云ひ、近頃新高と命名せらる、苟も我邦に生れたるもの、此の高山を知らずして可ならんや
春陽堂/1902年(1910年版 中巻 PID 887982 に同文)/PID 887976
※雲岳女史の演説。登山の実行は本巻では叙述されない
伊藤銀月『不死人』 [原文確認]
鳳「ないでもないね。あの新高山が、ヌウツと雲から頭を出して我々を迎へた雄渾味は、實に何とも云へなかつたぢやアないか。試驗飛行の記念にもなるし、新高號と命名しちやアどうだらう。」
陳「さうだな。臺灣生れの人間が作つた飛行機へ、臺灣の山の名を付けるなどは、何だか、小さく固執するところがある樣に聞こえて、結局は、折角の新高山を低くするだけの儲け物だよ。」
三教書院/1940年/PID 1031681 コマ75
※会話の応酬そのものが「新高山論」になっている稀な例
小栗風葉『麗子夫人』後編 [原文確認]
「いゝや、臺灣と云つて、お前なぞの知らない所だよ。」と切ない聲
「臺灣なら僕知つてるとも──學校で習つたから──新高山ツて山のある所でせう。」
「然う〳〵能く知つて居るの、感心だ」
隆文館/1906年/PID 888680 コマ101
※台湾から帰った父と幼い息子。教科書経由の知識として語られる
ほかに江見水蔭『錨』(1904/PID 885372)、大倉桃郎『離合』(1909/PID 888652)・『友情』(1912/PID 888563)、凝香園『南郷三郎』(1913/PID 906305)、くれない山人『滑稽ニコニコ大会』(1917/PID 914838)で会話文の用例を確認した。
一方、期待されがちな作品には言及そのものがなかった。佐藤春夫『女誡扇綺譚』(1926/PID 1019815)は「新高山」0件。中村地平「霧の蕃社」も0回。佐藤春夫「旅びと」と真杉静枝『ことづけ』(1941/PID 1134274)は地の文のみである。
紀行・登山 — 登った人、忘れられていると憤った人
大庭柯公『世界を家として』 [原文確認]
三十年我皇畏くも『新高』と命名し賜ふ。◎近時垂髫兒の富士登山の群に加はるもの尠からず。而も我新高山が專門學者或は山岳會員のために忘れ去られたるが如きは抑も何が故ぞ。
至誠堂書店/1917年/PID 948876 コマ136(目次に独立章「新高山」)
この憤りは、実態をよく捉えている。日本山岳会の登山文化のなかで新高山が周縁にとどまっていたことは、小島烏水『氷河と万年雪の山』(1932/PID 1192246)で新高山への言及がわずか1箇所、それも高度比較に留まることからも窺える。
台湾側での整備は着々と進んだ。1925年に山頂に新高祠が建てられ(台湾神社祭神御一座および大山津見命を奉祀/『阿里山と新高』1937・PID 1122507)、1937年12月27日に新高阿里山国立公園が指定される。鹿野忠雄『山と雲と蕃人と』(中央公論社、1941/PID 1043944)は、その時代の代表的な登山記である。
1940年元旦には皇紀2600年奉祝の登山が行われ、山頂で万歳三唱がなされたという当事者の回想も残る(戦後の記述)。新高山は驚きの対象ではなく、版図を可視化する国家シンボルとして上から整備された——資料の総体から読み取れる筋はこれである。
確認できなかったこと
次世代デジタルライブラリーの全文検索は、著作権保護期間が満了しインターネット公開された図書に限られる。以下は原理的に検索できないか、探して見つからなかった。
[裏付けなし] 明治30年前後の内地紙の報道
東京朝日・読売の当該期記事は一件も確認できていない。「日本中が驚いた」式の語りは、現時点では出典不明のまま。
[裏付けなし] 台湾総督府編『公學校用國語讀本』『公學校唱歌』本文
書誌は東書文庫目録・台湾総督府学事年報で確認できるが、本文は未収録。東書文庫または台湾側アーカイブでの実地調査が必要。
[裏付けなし] 『臺灣周遊唱歌』(1910)第48番の原本
「山の高きは日本一/明治の帝 名を賜ふ」という歌詞は複数の二次資料で一致するが、原本画像は未確認(台湾・国家図書館所蔵の1921年13版は「不開放授權」)。
[裏付けなし] 戦後刊行の戦前日記
『宇垣纏 戦藻録』『木戸幸一日記』『高見順日記』『台湾総督田健治郎日記』はいずれも未収録。
[裏付けなし] 日本統治期台湾の日本語文学
西川満、濱田隼雄『南方移民村』、庄司総一『陳夫人』、呉濁流『アジアの孤児』は著作権保護期間内で全文にアクセスできない。
[裏付けなし] 雑誌記事
『山岳』『台湾時報』『地理教育』『台湾日日新報』は本コーパス外。野呂寧「新高山の真高一三〇三五尺と確定す」(『臺灣時報』1925)は書誌すら確認できなかった。
[言及なし] 「ニイタカヤマノボレ」を主題化した戦前刊行物
公開範囲内には1件も存在しない。当然だが、暗号は1941年12月であり戦前の一般刊行物には反映されようがない。
次の一手として最も有望なのは、次の4つ。
- 国立教育政策研究所 近代教科書デジタルアーカイブでの第二期国定読本巻十・国定地理書巻二の現物画像
- 國史館臺灣文獻館の典藏管理システム(典藏號 00000121001 / 00002673014 / 0071010125a002)
- 陳文添「『新高山』名稱探源」(『臺灣文獻別冊』10、2004)
- 朝日「聞蔵II」・読売「ヨミダス」の明治30年6〜8月
数値の読み方 — この調査の限界
| 留意点 |
内容 |
| 検索範囲 |
2,971件は次世代デジタルライブラリー(インターネット公開図書 約35万点)の本文OCR全文検索の結果。NDLサーチの書誌検索536件とは対象も深さも異なり、直接比較できない(前掲「536件と2,971件」参照)。 |
| 単位 |
2,971件は書名単位のヒット数であり、言及回数ではない。同一書の複数版が別レコードとして計上される(『台湾現勢要覧』各年版など)。 |
| 偽陽性 |
OCR誤認・同名異所が確実に混入している。確認例:「千葉市新高山」「新高山市」、巡洋艦「新高」、「新高丸」「新高砂」「新高野山」「最新高価」。件数は上限値として扱うべき。 |
| NDC |
分野別は付与率が低く、全体の約36.5%しかカバーしていない。相対的な傾向としてのみ読める。 |
| 収録 |
インターネット公開資料のみが対象。1945年に近づくほど収録率が下がるため、1944年27件・1945年0件は出版量の減少とデジタル公開率の低下の両方が効いている。 |
| OCR |
すべての引用はOCRテキスト。旧字・ルビの本文混入・〓(未認識字)を含む。実確認例の誤認:「連筆」←「連峯」、「二萬三千七十尺」←「一萬三千七十尺」。 |
| コマ |
示した番号は画像通し番号(コマ)であり、印刷ページ番号とは一致しない。 |
主要出典
検索基盤:国立国会図書館「次世代デジタルライブラリー」/全文検索API / 原本画像:https://dl.ndl.go.jp/pid/{PID} / 書誌検索の比較対象:検索について(Q&A) | NDLサーチ
調査日 2026年8月26日。引用はすべてOCRテキストであり、原本画像との照合は未実施。