猫の道
駅から職場まで、案内に従えば十五分だ。わたしの道なら八分で着く。差は七分。往復で十四分、週五日で七十分だ。
ただし七分のために選んでいるわけではない。
大通りは歩かせるために作られている。歩道の幅、街路樹の間隔、信号の待ち時間。どれも人をまっすぐ先へ送るように置かれている。置かれたものに沿って歩けば、考えなくても駅に着く。そのかわり、沿って歩いているあいだは横が見えない。曲がり角は視界の外にある。角がないのではない。見ないように設計されているだけだ。
わたしの道は住宅街の塀と塀のあいだにある。幅は人ひとり分。両側が塀で、先は見えない。入口が道に見えないのが肝心なところだ。正面から歩いてくる者には、家と家の隙間にしか映らない。斜めに入って初めて奥が抜けているとわかる。だから地図には出ても、歩いている人間の目には出ない。
猫が通るのはこういう場所だ。猫は目的地から逆算しない。抜けるか抜けないかだけで選ぶ。人間は逆で、抜ける道でも「道に見えない」なら候補から外す。外した瞬間に、その道はその人にとって存在しなくなる。存在しない道が七分を持っている。
曲がり角も同じ理屈だ。ナッジに沿って歩けば絶対に曲がらない角がある。まっすぐが正しく見えるように、路面と塀と視線の高さが揃っている。曲がるには、正しく見えるほうを一度捨てなければならない。捨てられるのは、抜けた先を知っている者だけだ。つまりこの道は、一度通った者にしか立ち上がらない。初回は近道ではない。ただの賭けだ。
目印は住人の生活のほうにある。ある家の塀には政党のポスターが貼ってある。選挙のたびに顔が替わり、選挙が終わっても半年は残る。あれが見えたら次は左だ。別の角には建築中の住宅がある。骨組みだけだったものに壁が付き、足場が外れ、そのうち表札が出る。工事が終われば目印としては弱くなる。目印は減っていくものだ。減った分は角の順番で覚え直すしかない。
前を歩いている人の背中も材料だ。塀の道に入った先で背中があると、途中まで同じ道順になる。その人がどこで曲がるかで、こちらの道を知っているかどうかがわかる。二つ目の角でまっすぐ行けば知らない人間だ。左に折れたら同じ道を使っている。声はかけない。速度だけ落とす。
覚えたつもりでも間違える。先週、三つ目の分岐で一本手前を選んだ。塀の並びが似ている。抜けた先は職場と逆の通りで、そこから回って十八分かかった。近道を選んで遅くなる。八分の道は八分で着くのではない。当たれば八分だ。
この道はのんびり歩く道ではない。幅が人ひとり分で、対向者が来たらどちらかが下がる。塀が高くて景色はない。角ごとに次を思い出す必要がある。歩きながら考えごとはできない。だから帰りは使わないことがある。急がない日は大通りを歩く。十五分の道は、十五分ぶんの何も考えなくていい時間を持っているからな。