「寛容は不寛容に対して不寛容になるべき」
という考え方について知っているかどうか、別スレッドで問いました。
(不寛容には不寛容という考え方は、どのくらい認知されてるのでしょうか? - 世の中 - はてなパークス)
今度は内容についてです。
どう思いますか?
コメント一覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E5%AE%B9%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9 ここの渡辺一夫さんね
すでにパラドックスと名付けてあるくらいだからトロッコ問題くらい盛り上がってもおかしくはないのかもしれんけど
教科書でどの部分が抜き出されていたとかさっぱりわからないし本当にだいだらさんのいうとおり抽象的だとおもう「寛容を要求するのに不寛容」
だとか
「平和主義を掲げているのに議論の仕方が攻撃的」
だとか他人を批判する人がいます。
しかし結局のところ、それは裏を返せば
「寛容を主張するならお前は相手の言い分を丸呑みしろ」
「平和主義なら黙って殴られろ」
と言っているに過ぎないことが多いように思います。
それは、寛容や平和を主張する者は無抵抗で滅びろ、と言っているに等しいわけです。
(そうなって欲しくて言っているのかも知れませんが)
しかし、どんな主義主張であれ、それ自体を否定するような立場とは相容れないと思います。
民主主義はあらゆる主張を受け入れるけれど、民主主義の否定だけは受け入れられないように。
どんな寛容な宗教も、無神論とは共存できないように。
どんな寛容なオタクでも、オタク趣味自体の規制は認められないように。「相容れない立場」の範囲が、主義主張によってだいぶ違うわけですが。
(専制的な政府ほど思想統制を必要とするように)投票:- そう思う
基本的には「そう思う」んだけど、正直かなり留意事項はあるな。
一番大事なのは意見・思想や感情そのものじゃなくて、
他者の権利や社会参加を実際に損なう行為をどこまで許容するか
ってところじゃないかなあ。たとえば同性婚に反対する人がいるとして、
- 「自分は同性婚に反対だ」と発言する(意見・思想)
- 「同性婚を支持する人間を職場から追放しろ」と組織的に圧力をかける(非暴力的な行為)
- 当事者や支持者に直接暴力を振るう(暴力的な行為)
という3つは全部「不寛容」という一語でまとめられがちだけど、社会としての対応は当然違うべきでしょ?
そもそも「何を不寛容と認定するか」という境界線自体が政治化・道徳化しやすい。
最初のような意見まで排除してしまうと、今度は「許容される思想の範囲」を誰かが決めることになる。
そうすると、寛容を守るための仕組みが思想統制に近づいてしまう危険がある。
一方で暴力や制度的・組織的な排除まで「多様性のある意見」として放置すると、
今度は寛容な社会そのものが維持できなくなる。だから不寛容な内容を含む意見や思想であっても原則として広く許容する。
一方で、不寛容な行為には、その害の程度に応じて制限をかける。
というあたりが適切なラインじゃないかなあ。
問題はこの境界線を広げすぎても狭めすぎても社会の分断が進みうることだと思う。結局「寛容な社会」というのは個人の価値観すべてを受け入れる社会ではなくて、
異なる価値観を持った人間が互いを追放せずに同じ制度の中で暮らせる社会
なんじゃないかなって…投票:- そう思う
少し疑問ですけど、ここでいう「寛容」は、一部の人は「進歩主義」「リベラル」「平和・人権主義」として、「不寛容」を「保守主義」「排外主義」「保守派」としている。別の人は「欧米日本型自由主義社会」を寛容として、「イスラムなどの宗教(原理)主義」「共産主義」を不寛容としている。
「表現の自由」でも、「男性向けポルノ」を「女性支配」として不寛容とする人と、逆にポルノ規制こそ不寛容とする人がいる。
そして多くが、自分を「寛容」または「寛容であり得る」側に置く。
これでは「寛容/不寛容」の定義そのものが立場によって変わり、藁人形的な議論になりやすいのでは? いっそ操作的定義でも決めますか?
投票:- 質問が悪いと思う(是非、そう思う理由を書いてください)
思いついたことまとめずに書くと、寛容という言葉が具体的に何を対象としているのかが分からん以上個別事案でしか言えないよね、とは思う。
外国人の騒音問題に対して寛容であるべきかという議論と、ハラスメントに近い行為に対して寛容であるべきかという議論では、性質も前提も全く異なる。共通の善ってあるよね!みたいなスタンスを無自覚に受け入れてる人が多いのか知らんけど。
たとえば寛容が法律等で義務付けられていない以上、個人の自由として不寛容でええやんって姿勢を取る人からすれば、寛容派が「不寛容には不寛容で対抗する」と叫んだところで、ふーんへーおまえの世界ではそうなんだろうにしかならず、ただの自己満足でしかない。
法的な根拠や手続き(立法主義)に基づかない形で他者を不寛容だと断定し叩こうとする姿勢自体がそもそも寛容なの?みたいなこと言い出す人にはどうすんのって問題もあるし。
投票:- わからない
testesttestさんとほぼ同意見かな?
個別に、起こった出来事でしか語れないですね。主語を大きくしようと思えばいくらでもできるし、属性・生活の違いをどこまで受け入れられるか。
「不承認-尊重モデル」では一時期あったミームの
「お前の意見には賛同しないが、その行動には敬意を表する」がずばりそのものです。また階級闘争の道具に日常的になっていると言えます。
「信仰上の理由から「同性婚の挙式へのケータリングは辞退したい」と答えただけの小さな個人店に対し、全国規模の進歩派エリートや巨大IT企業の支持者、ソーシャルメディアの集団が激しいバッシングを浴びせ、店舗を休業へ追い込んだ。」これは「不寛容には不寛容を」の例でしょう。
日本でも同様のことがあったのは記憶に新しい(というか継続中)ですが
声を上げないこと(サイレントマジョリティ)がかならずしも「不寛容に寛容」な行動とは限りません。投票:- 質問が悪いと思う(是非、そう思う理由を書いてください)
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