日本史に因んだ有名な諺や故事について、その語源や信憑性を追求してみるスレッドです。補足やツッコミも大歓迎。皆で追求しましょう。
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元の黙阿弥(木阿弥)
コトバンクで検索すると、この典拠には諸説あるようです。
おそらく最もよく知られているものが、若くして病死した大和の筒井順昭が死に臨んで、自分に背格好がよく似た「黙阿弥」という盲目の法師を身代わりとして自分の死を秘匿するよう遺言し、家臣達もその通りにして後継者の藤勝(洞ヶ峠の逸話で有名な筒井順慶)を守り立てた後、改めて順昭の死を公表し、黙阿弥は元の身分に戻った、というエピソードです。
これは『和州諸将軍伝』という宝永4年(1707)に刊行された史料に書かれているもので、「黙阿弥ニハ厚ク金銀衣服ヲ得サセテ角振町ニ帰シケレバ元ノ黙阿弥盲目法師トナリニケリ今ニ至テ大和国中ノ諺ニ事ヲ作リ飾リテ亦昔ニアラハレ返ル事ヲ元ノ黙阿弥ト云フハ此ノ故事ヨリ起レリ」とあり、すでに江戸時代に流布されていた諺の語源がこの故事だと、そのように称しています。
またコトバンクには別の説、平凡社「改訂新版 世界大百科事典」を出典として、『元のもくあみ物語』という延宝8年(1680)に刊行された仮名草子を語源とする記述があります。
しかし、実はこの諺、戦国時代の用例がありまして、こちらの説は明確に否定できるようです。永禄5年(1562)に推定されている、内藤宗勝(松永久秀の実弟)が丹波の武将・佐々又五と小林日向守に宛てた11月13日付の書状に、敵方の宇津があれこれと懇望しているが、もし同意すると元の木阿弥となり勝っても無益となるから、分別を持って行動するように(「千ニ一も懇望同心申候者、各之儀、本のもく阿ミニ成申候てハ勝候ても不入事ニ候、居分別候条可御心安候」)、という記述があって、この頃にはすでに慣用句として使われていたことが分かるんですね。
一方『和州諸将軍伝』の説は、筒井順昭の死が天文19年(1550)なので、この用例よりも前ではあるのですが、そもそも明らかな虚飾が多く、史料としては信頼できなかったりします。
たとえば、松永久秀が天文14年頃には大和への侵攻を企んでいたとする記述(「松永弾正久秀ハ当年ハ順昭法師ト一戦ヲ始メント思シ處ニ飯田父子筒井ノ麾下ト成シカハ自空ク止ニケリ」)があり、このエピソードで想定されている「敵方」は松永久秀を指していることが窺えます。
しかし、実際に彼が軍勢を率いて大和へ侵攻したのは永禄2年のことで、筒井順昭の時代にはまだ有力な奉行人の一人であり(滝山城主に抜擢されたのが天文22年)、そもそも当時の三好家自体まだ細川京兆家麾下の守護代格の有力武家の一つに過ぎず、大和侵攻を企むなどありえない状況なんですね。また、『和州諸将軍伝』の成立時期から20年以上前にはすでに『元のもくあみ物語』が流布していたことを踏まえると、戦国時代にはすでに使われていた慣用句であることを知らず、後に松永久秀と筒井順慶がライバル関係になったことから、このような逸話を創作するとともに、『元のもくあみ物語』以前の語源を主張しただけではないかと、個人的にはそう考えています。
なお、『和州諸将軍伝』の元ネタになった『和州十五郡衆徒国民郷士記』という史料があるらしく、その記述と比較して分かることがありそうですが、今のところ確認できていません。
今回『和州諸将軍伝』が記すこのエピソードを改めて読み直したんですが、「順昭年ヲ享ル享二十八不幸短命ニシテ林小路ノ外館ニ卒セリ」「黙阿弥法師ヲ密ニ招キ謀ヲ合セ、此ニ入置キ、毎日食膳ヲ備ヘ各給仕ス」「五族三老近習四五人ノ外ハ、麾下ノ諸士ト雖モ是ヲ知ズ、順昭病悩ナガラ存生ト思ヒテ三年ハ過ヌ、況ヤ敵方ハ尚然リ、故ニ筒井家怨ヲナスモノ一人モナカリケリ」とあり、黙阿弥を身代わりとしてからも順昭の館への給仕を変わらず続けたことで、数少ない老臣や近習を除き、味方でさえも順昭がまだ病床で生きていると思い込んでいたために、3年もの間、敵方に付け入る隙を与えなかったという筋書きになっています。
とりわけ注目したいのは「此レ諸葛亮ガ謀トモ謂フヘキ者ナリ」と、諸葛孔明の故事に擬えていることで、たぶん著者はことわざの語源アピールというよりも、順昭の智謀を称えたかったのだと思います。『和州諸将軍伝』は国文学研究資料館のデータベースで読めます。「黙阿弥法師」のエピソードは巻二、35コマから36コマにかけて。
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0281-074802
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ムクリコクリ
井伏鱒二さんの『黒い雨』の中に、ピカドンのあとのクラゲ雲をさして「おおいムクリコクリの雲やあいもう往んでくれえ、わしらは非戦闘員じゃあ」というセリフがあって、初見は高校生のときなんだけどピカドン直後の大量の描写に気をとられてそのときはこのムクリコクリというのをさして気にせずにいた。
で、おじさんになってから網野善彦という歴史家の『東と西の語る日本史』(講談社学術文庫1343)という本を読んでて、その中に蒙古襲来と偶然の暴風雨についての記述があるのだけど(P228)、そこでムクリコクリが出てきた。蒙古襲来と暴風雨後、西日本ではムクリコクリという得体のしれない外的の恐怖感が残った、って書いてあったんだけど、そこではじめてムクリコクリの意味と、ムクリコクリが蒙古襲来と結びついているのを知った。辞書を引いたらムクリコクリは漢字で書くと蒙古高句麗なんすね。当方多摩出身多摩在住でつまり東日本の人間で、ほぼ使わないので知らなかった。
ムクリコクリが諺でもなければ故事でもないかもしれないけど、日本語の中には日本史由来のものがあるのか…と。ちょっと目からウロコだった経験でした。なんだかまとまらないのでこのへんで。
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